『1Q84』村上春樹 -巧みな比喩的表現によるマジック- [読書]

村上春樹の『1Q84』。Book1(前篇・後編)、Book2(前篇・後編)を読みました。

1984年から1Q84年に迷い込んで(という表現が適切かどうかは微妙)しまった青豆と天吾。ふたりはなぜ1Q84年に送り込まれたのか。そして、ふたりは1Q84年で出会うことができるのか。という物語。

ジョージ・オーウェルが未来として1984年を描いた『1984年』とは逆に、過去としての1984年を1Q84年として書きかえるという着想で執筆したようです。1984年から執筆時期までの社会背景がモデルと思われる設定が散見される。この辺の詳細は、先入観を持たずに読みたいので、Book3まで読んでしまってから改めて調べようかと。

Book1で伏線を張り巡らせ、Book2でそれらの伏線の詳細がある程度、記述されるが、おそらく、暗示的な内容は最後まで「答えはこうです」といった風には明かされないだろう。村上春樹の小説では、暗示的に何かを象徴しているような存在が多いが、いつもそれが何を象徴しているか分からない。ただ、それは漠然として感じとる類のもので、はなからしっかりと読みとれる類のものではないのだと思う。だから、分からなくていいし、それがおもしろい。物語の体裁をとった超長編の詩のようだ。あるいは、僕の読解能力が足りないだけかもしれないが。

そういった、暗示的で漠然とした謎が多く残されるのに、読んでいて気持ち悪くないのは、不思議な感覚だと思う。おそらく、それを可能にしているのは、巧みな比喩的表現による緻密な描写力ではないか。村上春樹の小説に慣れるまでは、このしつこいくらいに緻密な比喩的表現は読むのに苦労したが、これが物語に没頭する大きな要因だと思う。知らぬ間に物語と頭が同化しているような感覚がある。これは感情移入とはすこし違う気がする。あくまで、俯瞰で物語の中に入り込む感覚。『アフターダーク』に登場する傍観者のように。俯瞰で時間と場所を超えて物語を眺めるだけで介入できない存在。

Book1では、蜘蛛についての記述があり、DNAの乗り物としての生物についての記述がある。また、Book2で、唐突に蜘蛛のくだりを刹那的に回想するシーンもある。これらは、何らかのメッセージか、あるいは物語を象徴するものの一部ではないかと思うのだが、Book3で同様の暗示の続きは示されるだろうか。物語の続きとともに気になるところ。




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